宮崎の縄文土器が南米バルディビアへ?    戻る 


200594日権藤正勝氏再編集による
「太平洋岸宮崎でバルディビア土器風の縄文土器発見」から抜粋


 太平洋岸に面した宮崎市で、南米エクアドルのバルディビア土器とそっくりの文様を持つ縄文土器が発見されていた。バルディビア土器とは、米国スミソニアン協会のクリフォード・エヴァンス、ベティー・メガーズ博士夫妻により縄文土器とそっくりの文様を持つ土器様式として、1965年に発表されたものである。博士らはバルディビア土器文明が唐突に始まっている事から、縄文人が土器文化を携えて太平洋を渡って移住してきたものと考えている。

しかし、これまではバルディビア土器にそっくりの文様を持つ縄文土器の出土は、九州の熊本に限られていた。それ以外の地域では鹿児島や本州で出土した土器の一部にわずかに類似性が認められる程度とされていた。縄文人が黒潮に乗って太平洋を渡ったとするならば、何故、太平洋沿岸から発見されないのか。この点が最大の謎であった。今回、宮崎でこのような土器が発見されていた事が解かり、この謎が解明される可能性が出て来た。

  バルディビア土器そっくりの文様を持つ縄文土器が発見されていたのは宮崎市の中心部から 車で15分ほど大淀川に沿って遡ったところにある跡江貝塚遺跡で、1961年、地元のアマチュア研究家 日高 祥氏によって発見された。1961年と言えば、C.エヴァンス、B.メガーズ博士夫妻がバルディビアの土器と縄文土器の類似性を発表する以前であった。それが何故今日まで話題にもならなかったのか?考えてみれば不思議な話であるが、たまたまバルディビア土器の写真が日高氏の目に止まったのが今回の発見に繋がった。おそらく何年間にも渡って跡江貝塚遺跡の土器収集をコツコツと行ってきた孤高の研究家 日高 祥氏以外にこの遺跡から出土した土器文様を即座に思い出し、類推し得る者は他に居なかったからかも知れない。

跡江貝塚は、1万2千年前から7千年前の遺跡とされているが、発見者の日高氏によるとアカホヤ層の直下まで土器が埋まっている事から、6300年前の喜界島大噴火まで続いた縄文土器文化であると言う。

2003年の年末、ベティ・メガース博士の紹介で、博士の研究を引き継ぐ飯塚文枝女史が文様の比較研究のため来日した。飯塚女史によると、バルディビア土器には74種類の土器文様があり、跡江貝塚では43種類が確認できたと言う。ここで言う土器文様とは、アメリカにおける土器研究の分類によるもので、日本の縄文土器の分類とは異なるので注意してほしい。

飯塚女史による比較の結果、跡江貝塚土器の文様の内、25種類がバルディビア土器にも存在することが判明した。予想以上に高い数字ではあるが、このことが、跡江貝塚の縄文人が、バルディビア土器に影響を与えた証拠になるのか?残念ながら、可能性は低くないが断定は出来ないという。結局、土器の文様だけでは、いくら高い類似性が現れようと、文化の伝播した可能性を示す一つの指標にとどまるに過ぎないという。

文化の伝播を決定付けるためには、土器の文様のみならず成分や製作テクニック、その他関連する遺物等多くのもので類似性を検討し、統計学的手法を用いて、類似が偶然では起こりえないと言う事を証明する以外に方法は無いという事である。



跡江貝塚の土器とバルディビア土器との比較写真

        











  バルディビアの土器は、縄文土器の中でも熊本県出土の阿高式土器や曾畑式土器と類似しているとされている。 そこでエヴァンス・メガーズ博士夫妻は、バルディビアに似た文様を持つ土器は熊本県だけでなく、おそらく太平洋に面した宮崎県にも存在するはずだと考え、年代半ばに宮崎県を訪れ調査している。しかしメガーズ博士によると、当時、宮崎県でそのような土器を見ることが出来なかったという。博士はその点について、疑問を抱き続けていたらしいが、現在は、宮崎県内で発見された曾畑式土器は、西都原考古博物館で見る事ができる。